聖徳太子(2)争乱のはじまり

蘇我馬子は仏舎利を蔵める塔を建立した。
それは日本仏教において初めて寺院としての形が整えられた第一歩でもあった。
しかし、人々の間では疫病が流行し、異国の神をまつったためではないかと噂が流れる。
古くからの神々の祟りだという訴えを聞いた敏達天皇は排仏令を出し、仏教弾圧が始まった。
厩戸皇子は拉致された日本初の出家者・善信尼を助けようとする。
厩戸皇子の父・橘豊日大王は、新大王としての即位式である大嘗祭を終えた直後、流行病の天然痘に倒れ、祈りもむなしく崩御した。
用明天皇としてわずか二年の短い在位であったが、大王として初めて仏教信仰を表明した意義は大きかった。
天下を狙う蘇我馬子は物部を討つ決意を固める。
「この血を流さねば歴史は前へ進まぬのか…」苦悩する厩戸皇子も戦場に立つ。
仏教公認をめぐっての物部対蘇我の権力争いは、蘇我の勝利に終わった。
戦場で地獄を見た厩戸皇子は、この光景に目をつぶり彼岸の悟りを願っていても意味はない、地上で力を手に入れ仏法を実践しなくては、と心に誓う。
最高権力者となった馬子は、抜け目のない策略により泊瀬部皇子を次の大王に決め、自らの野望のため、娘たちを使って次々と手を打ち始めた。
馬子は自分の娘たちを次々と皇子に輿入れさせる。
河上郎女を泊瀬部大王に、志紀郎女を竹田皇子に、そして、快活な刀自古郎女を厩戸皇子にと画策する。
このままでは馬子に大王家を操られてしまう、警戒する厩戸皇子だったが、生まれて初めて心を動かされた女性・刀自古郎女と、親しかった竹田皇子の遺言に従い、姉である菟道貝鮹皇子を妃にすることが決まった。
厩戸皇子と刀自古郎女の間には待望の皇子が生まれ、喜びに包まれた。
しかし、厩戸皇子をとりまく情勢はますます緊迫していた。
泊瀬部大王は物部守屋の姪にあたる布都姫を妃に迎え、馬子へ対抗の姿勢を強めていた。
公の場での泊瀬部大王の発言を契機に、事態を重く見た馬子は大王の暗殺へと動く。
こうして日本史上初の臣下における天皇の暗殺が進められた。
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